たとえば、社会的に解決したい問題があって、その問題にどこまで取り組むかはその人次第だ。その問題への切実度は人によって違う。ただ、自分にとって大事な人がその問題にとりくんでいるなら、応援したいとおもうときもある。大飯原発の再稼働反対の抗議をしているひとたちの映像を見て、知っているひとたちが必至に訴えているのを見て、すごく苦しくなった。
そして、早く地球一個分の暮らしを私がしなければと思った。
毎日の仕事やなんやかやがあるけど。
家庭の分野以外の、工場や運輸部門の節電の仕方を
私はしらない。
でも地球一個分の暮らしを早くしなくちゃと思った。
7月1日にはその前の前の誕生日のプレゼントを思いがけずもらった。
私の人生が何で構築されているかといえば、
であった人と、いくつかかいた絵くらいだ。
だからそこに電気を使っているかどうかはあまり問題じゃない。
もちろん、飛行機にのって遠くに行かないと出会えなかった人たちも
たくさんいた。
何か、圧倒的にものがない状況に自分を慣れさせる必要があると思った。
私にとって本当に切実なものってなんだろう。
実はそんなにいくつもない。
家族がいて、猫がいて、家があって、幸せ。
ネパールにはいつか行きたいけど、いけなくても別に構わない。
オーロラもいつか生で見たいけど、別に見れなくても構わない。
リンパが腫れている。少しずつ被爆しながら、僕は死ぬのかもしれない。
死ぬまでに、いくつかの絵を描きたい。
本当に切実なのは、あなたにあえてうれしい、その気持ちくらいだ。
でも私にとってじゃなくて、これから生まれてくるこどもたちは、
どうしたらいんだろう。見当がつかない。
大人でさえわからないもんだい。
地球一個分の暮らしを私ができれば、
何かヒントになるかもしれない。
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