手で考える、体を心にする

私は自分が感じているけど、

言い表せなかったことばを

表現している人や本に出会ったときに感動する。

 

逆に言えばそうでない人の言葉を信じない傾向にある。

これは悪い癖かもしれない。

 

Bress made visibleという映画を茅ケ崎でみた。

90歳を過ぎても踊りつづける、アンナ・ハルプリンという女性の

半生を追ったドキュメンタリー。

映画上映準備会の主催者である越地清美さんが部分的に訳した彼女の著書の中に、

ドキッとする言葉があった。

 

「病気の人々について言えることのひとつは、身体的なリアリティに対する

コントロールが欠けていることだ。からだはそうしようとも思わないのに

勝手に変わっていく。真っ白な紙をもってきて、そこにイメージを描くことが、

彼らのこれからの人生をコントロールするための第一歩だ。それらは外的世界をコントロールしている」マイク・サミュエル

 

今朝、姉のうちに転がっていたSFの本の中にあった言葉。

「数限りなく行われた脳科学に関する実験のひとつは、人間の意志、たとえば

 『コップを持つぞ』という決断が、実際にコップを持ったあとで

 (正確には、持つために筋肉が動き出してから)、脳の中に生じている

  ことを明らかにした。意識は肉体の主人とは限らないのだ。つまり意識の

  座である脳が全身を統御しているわけではない。脳ならずとも全身の神経系が行動決定に関与している。言い換えれば指先まで一続きの脳なのかもしれない」(天冥の標 羊と猿と百掬の銀河、小川一水)

 

昔私は双極性障害になった父を朝の散歩に連れ出したことがある。

何か感動するもの、美しいものをみれば父が良くなると

単純に思考したからだ。

中学生の頃から新聞を配りだした私は、

朝に虹がたくさんでること、

朝の海はピンク色と水色がきれいなことを知っていた。

 

感情を感じること。

脳だけでなく体全体で感じること。

ダンスはそのバランスを取り戻す行為のように感じる。

 

たとえば誰かに悪口を言われて、

それを悪口と認識し、

からだのどこかにストレスを感じる。

ストレスというテンション(緊張)を感じた

細胞のいくつかは、壊れてしまうかもしれない。

からだは涙を流して、防御反応を示すかもしれない。

 

身体の再生能力を超えない限り、

「傷つく」という行為は生き物の進化の方向性

を決定づけるのに必要なことだ。環境との相互作用によって、

遺伝子の変異は生じる。傷は、進化の道標になる。

悲しみを感じることができるというのは幸せなことだ。

 

心の病の「こころ」とは一体どこにあるのかという話だけど。

たとえば脳のミトコンドリアが損傷して、

それが再生不可能(不可逆的)な部位だったとしても、

体全体が「こころ」であるならば、

その人はまだ「生きている」

脳死は認められないということになる。

 

絵を描いたり、ダンスをするという身体表現は体を「こころ」化して、
全体性を取り戻す作業なのかもしれない。
まさに「いのち」そのものになる行為。

体の動きを通して、僕たちは自分のこころの形を確かめる。

どこがひっこんでいたりくぼんでいるのか、

でっぱっているのか、ひとつひとつ見ていく作業。

自分を知るための作業。

世界の意味を知るための作業。

映画を見て、癒しとしての身体表現についてもっと取り組んで行きたいと感じた