つながりとひらめきと行動

木村ゆういちさんが、障害をもったおこさんが福島で生まれているのことを話して、それを脱原発と結びつけることに「統計的根拠」がないということで、批判されている件。私の中でも意見が飛び交っていて、すぐには反応できなかった。
 
私A
因果関係が証明されないと、だめだ。福島に住んでいるヒトたちのいらぬ差別をうんでしまう。
 
私B
おいおい因果関係がそんなに大事かい。今できることってなんだ。
逆にいえばもし証明できてしまったらどうするんだ。数の問題なのか?
それって統計の問題なのか?
予防原則っていうのは「因果関係が証明されてしまったら取り返しが
つかない」から予防原則っていうんじゃないのか?
だってもとに戻す方法がわからないんだから!
 
私C
いずれにしても、私ができることは、障害を持ったヒトたちと接し続けることだ。彼らと接していると…とくに彼らが描く絵は。
人間とは何かを考えさせられる。
 
私D
私Bの気持ちの代弁として、ケネディ大統領が語った言葉がある。あとで引用しよう。
 
私A
誰でも見える調査を行わなければひとびとは納得しない。
そういう調査を行える環境があるのか。勇気を持った科学者はどれだけいるのだろう。すでにそういう調査はあるのだろうか?
12人の甲状腺がんになった子どもがいるという事実はどう世間に受け止められているのだろう?
ひとつの指標として、低身長の子どもの割合を調べることが、
もっともお金をかけずにできる調査だと西尾先生は言っていたよ。
 
私B
もう3年たてばわかる。わかってしまったらどうする。今できることはなんだ。今出来ることは。
 
私C
つながりつづけることだ。一番弱い立場のヒトが声を聞ける位置にたちつづけることだ。心配なことは「心配だ」と声をあげれる社会をつくりつづけることだ。
 
私F
全然話は変わるけど、無事に生まれてきているということは、すでにたくさんの試練を乗り越えてきているということだから、生まれてきた個体は逆に強い生命力を持っている気がする。
 
私D
確かに、生命は環境に応答して、酵素をつくる。危機に大して対抗する酵素を誘導できたものが生きて、生まれてきているのかもしれない。
過酷な環境において、生き延びた種は過剰なほど強くなる。
 
私C
でも、死んでいく命や、障害を持ったヒトの命に意味がないなんてことはないよね。存在で、魂の表現をしきっているのだから。
最首悟さんという教授の方は、星子さんという重度障害の娘さんと一緒に暮らしているけど、脱原発の立場をとっているよ。
僕たちはもうすでに、美しい世界に生きているとおもうんだ。
そんななかで、すべてがもし決まっているのなら、
なぜこんなにもがく必要があるのか
なぜ心が痛むのか、知りたい。
痛む必要がないなら、とっくに楽に生きているはずなんだ。
 
私D
あまりにたくさんの現象がおこりすぎていて、混乱しているな。
こういうときは、体を動かすのが一番だよ。
 
 
映画のチラシを300枚まいて、来てくれたのは一人だった。
もうひとりの自分が、
「おい、紙をまいて、何か変わるのか?お前は何をやっている?資源と労力と時間の無駄ではないか?お金をもらえるわけでもないのに」
と常に問いかけてくる。そんなのわからないよ。。。
よくわからないけど「流れ」がそうさせるのだよ。
そういうふうに、できているから、止められない。愚かでも滑稽でも、
キチガイでもかまわない。病院には入らないもん。
捕まらないぎりぎりのところでキチガイをするんだよ。
薬は、飲まないよ。病気にも、ならないよ。
むしろ捕まってもいいわ、もう。
だってそういうふうにできているんだもん。
でも意外にひとりきてくれたよ。
私が書いたチラシで。
ヒトをかえるのって大変っていうか、かえられないわ、こりゃ。無理だ。
そのヒトの話をきくことしかできない。
人前で話すよりも絵を書いたり、チラシをポスティングする方が
私はやりやすいと思った。あーあーあー