躁状態の人と話すとき

 

 
躁状態の人は、話すのが止まらなくて、止まらなくて、
一緒にいると正直つかれる。
相手が聞いているのかどうかおかまいなしに
しゃべり続ける。
自分は、目の前にいるのにいないような気になる。
やりとり、ができない。
こわれた機械といるみたい。そういうときはなんだか悲しい。
 
初めてそういう人に出会うと、
円滑なコミュニケーションが成り立たないので、
ふつーの人はとまどう。
外国語しかしゃべらない外人が、さらに訳がわからなくなった感じ。
外人の方がまだアイコンタクトとかが通じる。
 
でも、「そういう人もいるものだ」
と慣れてくると、次からはあまり戸惑わなくなる。
ときどきそういう人はいる。
「よっぽど人に話を聞いてもらっていないのだな」と
思う。それは本当は自分もそうなのかも。
いつも、要点をまとめて、簡潔に、って求められているから。
みんな忙しいから。
そういう場面がたまりにたまって、
話をきいてくれそうな人に出会うと、
滝のようにしゃべり続けてしまうのだとおもう。
 
そういうしゃべりつづける人に対しては
私は意識的に会話をぶったぎるようにしている。
そうすると相手は話し続けている自分に気付いて「はっとする」
はっとする人はまだ大丈夫だ。
うちのお父さんはもうそれさえできなかった。
もう壊れてしまっていた。
話が通じるうちに、もっと父といろんなことを話せばよかった。
今では聞きたいことが沢山ある。
 
今までであった「話しすぎる」人で、
「はっとする」人はだいたい回復に向かっている。
私はそういう人にであったらまず、
自分の意見を忌憚なくいうことにしている。
その方がそのひとのためになる。
そういう人は自分自身に
「これ以上嘘がつけなくなっていて、心身に変調をきたしている」
ので、嘘を言う必要がない。
そういう意味では付き合いやすい。
だから私は変な人を避けない。
避けないで、「ほんとのこと」を言うようにしている。
 
最近参加したトーキングサークルというものでは
「ひとのはなしを最後まできく」
というシンプルなルールがある。
普段いかに自分が「人の話をきいていないか」
また、
「話をちゃんと聞いてもらえたと感じていなかったか」
がわかる。
 
 
 
あと、自分の「感じていること」を話すのが
ほんっっっっっとーに苦手な人がいる。
一体何歳の頃から封印され続けているのか。
それは私も然り、自分の感情の動きに鈍い。鈍すぎる。
出来事の1日後に感情がドアをノックすることもある。
 
ほんとは別のことを求めているのに、
口では全く別のことを言っているひともいる。
自分で自分の気持ちがわからない。
世間から求められていることを話しているのに、
自分の体や心がそれと乖離している。
その乖離を整理すると、すっきりすることもあるみたいだ。
そういう意味では、飛行機であった南米の原住民のひととかは
会話がシンプルで、とても付き合いやすかった。
 
で、壊れたロボットみたいな父親をなくしてから、
私は世界中の悲惨な状況に目をつぶることができなくなった。
私はお父さんを壊したのに、
幸せになれるのか。今でも十分幸せだけども。
精神病の人を病院に閉じ込めて、
テレビを見て笑うことはできない。
W杯だぜ、いえーってなれない。
相手を力いっぱい打ち負かすことができない。
自分は十分に排除した側の人間だ。
排除しつづけることができない。
嘘をつきつづけることができない。
世界を憎みつづけることができない。